東京ファッションデザイナー協議会の発足は1985年。
パリ、ミラノ同様、東京でコレクションを組織的に発表しようとしたものである。
その前身は、菊池武夫、山本寛斎、松田光弘、金子功、コシノジュンコ、花井幸子のTD6と呼ばれる
6人のデザイナー集団であった。
1981年に「東京コレクション」と銘打って作品を発表していった。
TD6の発足は1974年で4年後にコシノヒロコ、吉田ヒロミ、川久保玲、山本耀司が加わったものの
1982年パリに拠点を移す川久保玲と山本耀司の脱会がありTD6としては翌年解散となっている。
ともあれ1980年代のデザイナー・ブームでヤング・ファッションは隆盛を極めた。
ヤング向けスーツはBIGIやNICOLEを筆頭に百花繚乱、丸井も一気にハイ・ファッションの担い手となる。
僕は社内でヤング・ブランドの立ち上げに携わりスーツ・ブームを体験した。
スーツ最適素材は梳毛糸とされ、毛織の現場では梳毛ブームということになる。
イタリアでは毎年3月(来春夏用)と9月(来秋冬用)に織物の見本市が開かれる。
高級織物の産地として有名なビエラ地区のメーカーがコモ湖のほとりにで「イデア・ビエラ」と銘打って
催すうもので世界中から素材バイヤーが集まってくる。
梳毛ブームはイタリア素材を紳士服地の主役に一気に引き上げた。
国内でもLANVIN、DIORといったライセンスのラグジュアリー・ブランドのスーツは平均10万円以上の
値段であるがイタリア素材を使って贅沢なものづくりができた。
イタリア素材はブランド名まで一般に知られることとなった。
CARLO BARBERA、 ERMENEGILD ZGNA、 LORO PIANA、
TORELLO VIERA、 LUIGI BOTTO、 FINTES、POLICARPO、CANONICO
L’AFFARI 僕の立ち上げるブランド名が決まった。
1988年のことで翌年春夏物でのデビューに向けて準備は駆け足となる。
ブームのDCブランドに対抗すべく、アドバイザーに現役のデザイナーと契約をして斬新なアイデアを
提供してもらうことになり、山地正倫氏が紹介された。
1985年に独立、1986年に「MAJI-MASATOMO」で東京コレクションデビュー、1989年当時は
表参道骨董通り沿いにショップ&オフィスを構えていた。
地味なスーカーにいた自分にとって華やかなデザイナーの世界とはいかなるものか。
山地氏は拍子抜けするほど常識的であった。
「黒と紺とナチュラル・カラー。スーツはそれだけでいいですよ」
「変わった色やデザインは他のメーカーに任せておけばいい」
「売れ残りそうなものを無理してつくるより残らないものをつくるのが王道」
ソフト・スーツの呼び名が定着してきた頃で、シルエットは極端にゆったりになっていたが
L’AFFARIは基本を大きく外さないスーツになった。
東京コレクションは今も続いているが当時ほど話題になることはない。
三宅一生、山本耀司、川久保玲といった一時代を築けるほどの才能が見当たらない。
山地氏もデザイナーとしての軸足はパリにある。
服飾はその国の文化であるする視点が日本には欠けている。
文化服装学院という学校があるが文化を冠したその名から期待のようなものを感じる。
学生が夢を見られる状況になるとは東京コレクションが輝きを取り戻すことと同じである。

パリ、ミラノ、ロンドン、ニューヨーク、そして東京
to be continued
BYBLOS、ROMEO GIGLI、MOSCHINO、
GIANMARCO VENTURI、KRIZIA、
VALENTINO GARAVANI、FENDI、
ミラノ御三家に続く新しい才能、老舗ブランドも充実していた。
カジュアルは華やかでカラフルでスーツさえもが色鮮やかになった。
素材メーカーLUIGI BOTTOのカラー・サンプルは見ているだけで楽しかった。
アルマーニも初期の頃は基本的なタイト・フィットであったが独自素材を手にしてから
シルエット革命をおこしたものだ・
バブル期まで服は膨らむだけ膨らみそして弾ける。
80年代後半からの日本はイタリア・ファッションに席巻される。
ロンドンもパリもニューヨークさえもが霞んでいた。
DOLCE & GABBANA、D-SQUARED、PRADA
90年代の波もイタリアから。
ミラノ・メンズ・コレクションもまた膨らむだけ膨らんできた。
ミラノ・コレクション・事務局
to be continued