1980年代に入るとイタリア・ファッションの発信はフィレンツェからミラノへと中心が移る。 70年代に力をつけたミラノのデザイナー達はピッティから離れミラノで独自のショーを開催 するようになる。 80年代の日本はDCブランドがブームとなり、総合アパレルとしてヤングからシニアまで 製品をつくっていたメーカーは、ヤング&カジュアル部門で大きな方向転換を強いられ、 納入先を70年代後半から台頭してきた郊外型量販専門店に重点を置くようになった。 ミラノ系デザイナーの雄といえば、ジョルジョ・アルマーニ。 ソフト・スーツの原型をつくったのは確かだが、70年代にはタイトなシルエットであった。 寧ろソフト・テーラードとしてはアルマーニよりHILTONの服を参考にしていた。 ともあれ服は80年代後半からタテにヨコに膨らみ始めた。 スーツがおしゃれ着として浸透し始め、浮かれたバブル景気はそんな服を仕事着として すんなりと受け入れたしまった。 アフター・ファイブ楽しめる服として。 ミラノ・コレクションはジョルジョ・アルマーニ、ジャンニ・ヴェルサーチ、 ジャンフランコ・フェレの三人を軸に80年代に大きく羽ばたいた。  アルマーニがセカンドライン「EMPORIO ARMANI」を発表したのは1981年。 以来飛躍的に世界を席巻していった。
70年代、スーツは細ければ細いほど若々しく格好よいとされていた。パンツはノータック、ウェストは70cm台でなければもうおじさんの服にいくしかなかった。膝から下がフレアになっていたのはより細さの強調のためだったのだろうか。裾巾30cmのパンツをはき、靴も 10cm以上のハイヒールタイプをはいたこともある。  80年代に入りBIGI,NICOLEといったDCブランドがヤング層の心をしっかり捉え、アダルト・シニア市場との区分がはっきりしてきた。  ともあれ展示会を見て我々の最初の関心事は上衣の衿巾であった。それによって服の表情ががらっと変わるということもあって最初にチェックを入れたものである。ネクタイの巾もそれに連動して変化していた。今と異なるのはシングルの3ッ釦、ダブルの6ッ釦がほとんどなかったことである。今もってシニアの方々に2ッ釦スーツがオーソドックスと思われているのは、つい最近まで3ッ釦スーツが主流になった経験がないからだろう。ベントもセンターが圧倒的に多かった。ヤングの服は細長い傾向に進み、V-ゾーンは広め、着丈が長く美しいシルエットを出すためにノーベントが多く取り入れら、パンツも2タック・プリーツ、裾はテーパードへと移行していった。 80年代アルマーニ・ブームはすぐそこに、空前の梳毛スーツブームも目の前にあった。 to be continued
 会場を一通り見て廻ると街中へ繰り出すことになる。店頭で参考になる商品を買い込んだりディスプレーの実際を観察したり。1月のフィレンツェはどこよりも早く春夏物が入荷している。当該シーズンのバーゲン時期でもあり何ともあわただしい。RASPINI、LUISA、OLIVERといったセレクトショップの品揃えは素晴らしく楽しいものであった。イタリアン・カジュアルがぐんぐんのしてくる時で、デザイン、色、素材感どれをとっても新鮮に感じられた。程なくミラノ・デザイナーたちの群雄が始まりイタリア・ファッションの中心もフィレンツェからミラノに移ることになるが今はそんな気配もなく街にはデザイナー・ブランドは目につかない。REPORTER、MOMENTO DUEといった企業ブランドの全盛でファッション雑誌の「L’UOMO VOGUE」、「M0NDO UOMO」「VOGUE HOMMES」を華やかに彩っていた。ジャンパーという言葉しか僕には馴染みがなかったが、ブルゾンというアイテムがその言葉とともに脚光を浴びだしたのはこの頃からではないだろうか。レザーを筆頭に綿、麻、毛、色んな素材でスタイリッシュなデザインに満ち溢れ、コートもとてもファッショナブルでお洒落に貪欲な雰囲気に街中が満たされているようだ。  「フィレンツェの職人」をキーワードに昨今マニアックな世界が形成されているが、この頃からそこにものの価値の最重要を見出し今に伝えている人達が少なからずいる。僕はまだまだモードの世界にしか関心が向いていなかった。日本の市場はDCブームに移る直前期で、ひとつのアパレルがヤングからシニアまでを カバーするようにスーツからカジュアル・アイテムまで作っていた。その中でもカジュアルは隆盛の時を迎えていた。やがてはDCブランドの台頭とともにヤングだけは別途専業的な分野になっていくのだが。 ともあれ街は活気の中にあった。。 to be continued
初めて見る見本市、名称は「ピッティ ウォモ」。ピッティはアルノ川の向こう側、市内の反対方向にある大きな宮殿の名称。1972年元々そこを会場に始まったものでウォモとは男性の意と説明される。 現会場はピッティ宮ではなく、メインを城塞の跡も見事なフォルテッツァ=ダ=バッソに、その周辺のホテルや大きな建物を利用してさまざまな展示が行なわれる。  メンズ・ファッションでクラシコという言葉も随分と浸透したものだけれど、その発祥となるクラシコ・イタリアなる一群のファクトリーは独自の協会を作りピッティ内で別個のブースを構えていた。テーラードにおける当時のものづくりの基準となり、その領域からの距離感でモード的であるかエコノミーであるかを判断したものだ。 BRIONI、KITON、ABRA、BELVEST、ISAIA、HERNO、ROTA...とても特徴的なABRAはいつの間にか消えてしまった。 我々を案内してくれたのはミラノの巨匠テーラー、VINCENZO=LILOIA氏。氏の名前を冠にしたLILOIAブランドを名古屋の同業が立ち上げていたことを思い出す。氏ご自身は本格テーラー=サルトであったが、既製服生産工場の現場を指導できるマエストロを日本に紹介していた。大手のダーバンには、ストリポリィ氏が、天神山にはコスタンツォ氏が関わっていた。フランスのオートクチュール・ブランドのライセンス・ビジネスが隆盛を極める一方で地道なものづくりに日本のスーツ・メーカーも努力していたものだ。 クラシコ・イタリア・ブランド以外にもSt.ANDREWS、D’AVENZA、NERVESA、 CONFIRといったいいメーカーが覇を競うように林立、壮観であった。 to be continued
フィレンツェの駅に階段はなく、道路と同じ高さなのがいい。ターミナルとはこういう駅のことを言うのだと目に感じ、今冬であることが一層風情をヨーロッパらしくしていると肌に感じた。  目的は言うまでもなくメンズ・ファッションの見本市を見ることだが、ここで歴史を意識しないわけにはいかない。見るものすべてに圧倒されることになるのだが、先ずは旅装を解き夕食へ。駅の近くの名前は忘れたが魚の美味しいレストランでトスカナの料理を味わった。 その店の近くにオッティーノ(OTTINO)というレザーの高級店があったが現在は場所を変えている。一目で気に入ったのに今もって日本ではほとんど知られていない。海外のブランド・ビジネスにその後関わるようになるが、必要なのは売れそうかどうかを見極める目であり、決して商品に惚れるなという鉄則はまだ知る由もなかった。何年か後に起こるミラノ・デザイナーズ・ブーム。鉄則を守りジョルジョ・アルマーニの成功で弾みをつけた伊藤忠の商売に徹する視点と姿勢は今も変わっていない。 ともあれ1981年、メンズ・ファッションの中心はパリであり、イタリアは生産の拠点として実力が認められてきたところであった。。 to be continued
ミラノのドォーモ(大聖堂)には驚いた。凄いもんだなぁと驚いた。ヴィスコンティー家云々という話を聞きながらとにかく圧倒された。でもなぜ、パリのノートルダムほどには有名ではないのだろうと後年疑問に思うのだがその時はただただ驚くばかりで、ロマネスクやらゴシックやら何の知識も持たない自分にも疑問を持たなかった。  現地で案内役をつとめてくれたのは、ヴィンチェンツォ=リロイア氏。イタリア・テーラー界の重鎮で、当時60歳ぐらいであった。立派な造りの銀行が立ち並ぶ区域に氏のアトリエがあって、10分ほど歩くとスフォルツァ城に着く。氏の若い頃はバイクに夢中で、KAWASAKIこそが憧れのマシーンで後部席に女の子を乗せて走るのが最高の男の振る舞いだったと聞かされた。市内を走る車でいちばん目につくのは黄色いタクシーで、そのほとんどがフィアットであった。この石の街には確かに金属質なバイクがよく似合う。 ミラノがイタリア・ファッションのメッカとして注目されるには1980年の頃はまだ早過ぎた。大きなメンズ・ファッションの見本市はフィレンツェで行われていて何よりそこが日本の関係者にとって情報のメッカであった。我々も-当時は4人ほどのチームで海外に出られたのでそういうのだが-早々にミラノからフィレンツェへと移動した。移動の列車がコンパートメントでそれだけでヨーロッパだなぁという気がして窓の景色を見ていたのを思い出す。 to be continued
男の装いのお手本といえば、先ずはロンドン。モードならばパリ。トラッドでニューヨークといったところが一般的な認識だった。でも入社してすぐに洗脳されたのは、こと男のスーツに関してはイタリアを知らねば何も語るなの一点張り。イタリアン・クラシカル・テーラリングの優秀さをとことん教え込まれた。今でこそその真価が認められ、有力セレクト・ショップなどが喧伝しているが当時はまだまだブランド信仰の時代。つくりの良し悪しより、華やかなブランドの価値に評価は集まっていた。 岩手の東和町に自家工場を構えていた当時イタリアから技術者を招聘、3年間岩手の地に住まわせて、とことん工場をイタリアンに変えてもらった。年間3000万円程の報酬だったと思う。ちなみに大卒初任給は8~9万円程。 目指したのはBRIONI、KITON、BELVEST、ISAIA、ABRA、D’AVENZA、といったイタリアの工場の品質。現在既製スーツでKITONは40万円を越している。 そんなチャレンジは浮世離れしていると冷たい目で見られたのも、日本の市場を見ると無理からぬことだった。 それはさておき、27歳の年、思いもかけずイタリア出張の機会が巡ってきた。フィレンツェで行われる男の見本市の視察。1月の2週目だった。 ミラノの空港に降り立ったのは夜の11時頃。投宿のホテルまでのタクシーの中、ラジオから流れたきた曲はエリック=クラプトンの「ワンダフル・トゥナイト」。街中に入ると新年を飾るイルミネイションが霧に包まれ妖しくきらめいていた。 SLOWHAND 1977年NHKの「ヤング・ミュージック」でクリームの演奏を見たのは何時だっただろう。クラプトンのインタビューで、人差し指でのチョーキングが云々の話がとても印象に残っている。 LPレコードでこれを買って、「コカイン」が一番好きだった。 どうしてもストラト・キャスターが欲しくて無理して手に入れたのは25周年アニバーサリー・モデル。毎日通っていた地元の小料理店の10周年パーティで音を披露した。 ♪We go to a party. これを機に僕はイタリアをヨーロッパを勉強する機会を得た。ミラノ、パリで行われるファッション・ショーをつぶさに目に収めつつ、僕はだんだんとヨーロッパの文化を感じ取っていった。 How much I love you. to be continued
当時の有力アパレル・メーカーといえば、オンワード、ダーバン、三陽、大賀。それぞれがピーター=フォーク(コロンボ刑事)、アラン=ドロン、長島茂雄、加山雄三といった有名人をイメージ・キャラクターに使い、TVコマーシャルやポスターといった、マス・メディアを使ってマスな市場を狙っていた。Y体という細身を表すサイズを着ることが若さの象徴のようなもので、普通のサラリーマンがこぞってぱちぱちなスーツを無理して着ていたものでした。 80年後半になってアルマーニの影響からソフト・スーツが現れ、一気にシルエットはぶかぶかになった。今はまたタイトな着こなしになってきたが、そのぶかぶかとぱちぱちの間に程よいバランスの時期があり、それをベーシックと称してクラシック回帰となる。この10年でクラシコ・イタリアなる言葉も定着したのはご愛嬌として、モードは30年を周期にぐるぐる廻っている。でも螺旋で廻っているから同じところには戻ってはこない。70年代の細い服を今着たら絶対に可笑しい感じがするはずだ。 DCブランドの隆盛は80年代で、MEN'S BIGIの設立は75年。「傷だらけの天使」の萩原健一(ショーケン)で一気に人気が出たということだが、「太陽のほえろ」でのスーツ姿の方が格好よく思えて仕方ない。ヤングに特化したブランドの台頭で前述のタイプのアパレルからY体のスーツが消えた。僕が入社したてのころはまだヤング・ブランドを自社で作っていたけれど、程なく消えた。 ところで、70年代男の必須アイテムは煙草と麻雀。 煙草:セブンスターが一番人気でラーク、マールボローといった輸入煙草も大人気。 僕はいきがってロングピースを愛飲、いい香りが懐かしい。歯磨きはザクト。 ディランⅡ 「昨日の思い出に別れをつげるんだもの」72年発売煙草といえば「プカプカ」。関西フォークという呼び名があって、フォークでもブルースの手法を取り入れた歌が関西では支持されていた。男っぽいからいいんだという理由なのか、かぐや姫が得意だった僕の歌は軟弱フォークといわれた。 「プカプカ」はみんな得意になってやっていた。誰もが知っていて誰もがやっていた。僕は知らなかったので、練習して覚えて得意にして、LPを買って女の子にプレゼンした。翌年彼女は僕の知らない人とどこかに駆け落ちして京都を離れて行ってしまった。彼女もよく煙草を喫っていたっけ。 ♪遠い空から降ってくるっていう 幸せってやつがあたいにわかるまで 麻雀:アルバイト先の喫茶店に住み込みで働いているご夫婦がいた。大阪から駆け落ち で京都にやってきて、二人して飛び込んだという。奥さんは良家のご令嬢で音大 出。ホールを切り盛りしながら、非番のときはピアノの個人レッスンをしていた。僕 も入門して一年程お稽古したが、出来の悪い弟子であえなく破門。ご主人は大阪 ではサラリーマンだったが、雀荘に昼間から入りびたりで、ブーマン専門。何でも いきつけの雀荘に神様のように強い老人がいて、意地でも勝ってやると毎日通い つめたとかいっていた。僕も強くなりたくて何回か手ほどきを受けたけど、牌が全部 透けて見えているのかあの人には。一応師匠と呼ばせてもらうにしても、バイト代 は授業料にだいぶ換わっていた。裏の離れの一室には、夜な夜な旦那衆が集まっ てきてはよく遊んでいた。夜中の12時仕事が終わると僕もちょくちょく観戦してい た。種目は手本引が多かったが、時には麻雀もあってその時の師匠の強さは尋常 じゃぁない。僕みたいな素人相手とは訳が違うとばかり凄い気合で打っていて、負 けたところは見たことがない。卒業後何年かして耳にしたのは、その師匠若い女の 子と駆け落ちしてどこかに行ってしまった由。 あれから30年、みんなまだ煙草をやめないでいるのだろうか。 to be continued
1977年、名古屋のアパレルメーカー(株)天神山に入社。今に続く30年のこだわり人生の始まりです。今でこそ「tenjinyama」と入力すれば検索ページの上位に現れるようになったけれども、その名前からスーツ・メーカーと連想する人はいなかったなぁ。 大学は同志社でしたから4年間を京都で過ごしました。周りは例外なく長髪の男ども。ベル・ボトムのジーンズの裾を地面に擦ってぴょこぴょこ歩いていてなんとなく小汚かった。格好つけたがりの僕などは、JUNのDOMONショップがお気に入りで、なよっとしたスタイルにうつつを抜かしていたものでした。髪も長かったけど、美容院でカットして小ぎれいにしておりました。 住まいは6畳一間の下宿屋さんで、月6000円。そういえば授業料は年間で10万円、国立なら確か2万4千円だった覚えがある。隔世の感とはこういうことか。 「アルバイトばっかりで学校へは行かず...」のフレーズそのままに4年を過ごして何も勉強しなかったのは反省しきり。といいながら、夜な夜なサパー・ナイト・クラブなるものに入れあげて、何とも甘美な世界を垣間見ていたのもこれを勉強とみればそれも良しとしようか。 当時の学生の間で音楽といえば、フォーク派かブルース派。軟派か硬派かと同じようなニュアンス。僕は拓郎、陽水、かぐや姫派。それでもビートルズ・バンドでジョージのパートを練習したり、ブルースのソロ・フレーズをコピーしたりして、ギターの技を磨くにジャンルは関係なかった。 「北山杉」(岡本正とうめまつり)オリジナル発売は1975年6月25日、僕が耳にしたのはその年の秋頃かなぁ。 地元の深夜放送「日本列島ズバリリクエスト」パーナリティは、諸口あきら。ラジオで聴き覚えたとしてここでしかないと思う。 神田川もいいけれど、僕にとって日常の実体験感が湧いて来るのはこの一曲。 ♪四条通りをゆっくりと君のおもいで残したとこを....。 四条通りを黒いダッフル・コートを着て背中を丸めて歩いてますという歌い出しで、僕はTACの茶色のピー・コートを着ていてこれはとても自分に似合っていると思いながら同じように同じ通りを歩いていた。 to be continued
30年、男のテーラード・スーツに関わる仕事を続けています。 オーダーではなく、既製服の世界でです。それもイタリアにとことんこだわりました。 ここ数年で急速に言葉として認知度が高まってきましたのが「イタリアン・クラシコ」。 一部狂信的なファンもいて、何か特別なイメージができてしまいましたが、本質はいたって単純。 昔から最良とされる製法で今を作っているというだけのこと。ファッションは生地とシルエットの斬新さが不可欠。でも製法は変わってはいけない。 どんなにコンピューターが進歩しても、服は人の手と道具で作るものです。 ハンド・ワークだからとかマシーン・メードだからということより、服作りの工程を、時間を節約せず妥協なくいかに丁寧に仕上がるか。本質はそこにしかありません。 量販店でクラシコなる服が大量に安価に提供されていますが、それは文庫本のようなものとして、本質を知った人が関わった製品であるならば結構なものです。けっして侮る筋合いのものではありません。 でも私が関わるのは、大量生産に馴染まない工場での製品です。 日本で稀有な存在となった工場とは、岩手にある「東和プラム」 ここにわたしのこだわりがあります。 東和プラム この写真は 見ただけでムムムと思うほどの図です。 to be continued
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